2017年5月14日、この日は母の日、母の誕生日でした。
そして、兄が亡くなった日です。
色々あって、僕に連絡がきたのは15日の夜でした。
そこで母からこの言葉を聞きました。
「お母さんの誕生日にお兄ちゃん死んじゃった・・・」
ぼくは何て言っていいのか、なんと言えばいいのかわからず、ただ
「大丈夫?」
としか言えませんでした。
人の心を癒したり幸せにしたいと思って、心理学やカウンセラーの勉強をしていたのに、言えたのはこの一言・・・無力さでいっぱいでした。
そしてこのとき感じたのは、兄の死への悲しさや、両親に対する心配、兄に対する怒りです。
とても複雑な感情でした。
さらに「今年もか」とむなしくなりました。
社会人になってから約3年。この間に僕の周りでは約1年に1人亡くなっていきました。
1年目はお母さんの妹、僕からしたらおばさんが亡くなりました。
おばさんはすごく優しくて、きれいで、小さいころからすごく可愛がってもらいました。
おばさんは、若いころに離婚してしまい、子どもがいなかったので、自分の子どものように僕ら兄弟を可愛がってくれました。
僕からしたら2人目のお母さんです。
そんなおばさんも再婚することになります。
そして、40歳で子どもを授かります。
男の子でした。
40歳になってやっと授かった1人息子、とてもとてもかわいがっていました。
お母さんと僕で、
「おばさんは子離れできなさそうで心配」
と話して笑っていたほどです。
しかし別れは、強制的に訪れました。
子宮頸がんでした。
おばさんが50歳、息子10歳。まだ小学5年生のときでした。
もう意識が朦朧としているときに会いに行きました。
顔はやつれ、声を出すのもやっとの状態のおばさんがそこには居ました。
声を出すのも辛いはずなのに、がんばって言うんです。
「今までありがとう」
って、振り絞って言うんです。
「息子をよろしく」
って・・・
握ったおばさんの手はやせ細って、力もありませんでした。
それでもがんばって息子をよろしくって言うんです。
どれだけ生きたかったでしょうか
どれだけ無念だったでしょうか
生きていたらたくさんのことがあったはずです。
反抗期を迎えた息子と言い争いをすること
彼女を紹介されて複雑な気持ちになること
息子のスポーツする姿を夫婦二人で応援すること
息子が成人する姿を見てうれしく思うこと
息子が結婚する姿を見て涙すること
夫と二人で老いていくこと
孫をその手で抱き上げること
多くの幸せがこの先にあったことでしょう。
でもその全てできませんでした。
本当に本当に生きたかったと思います。
でも生きたいと強く思っていても、病気には勝てませんでした。
人はどれだけ生きたくても生きることができないことがあります。
2年目はおばあちゃんでした。
おばあちゃんはひたすらに優しくて、働き者でした。
おばあちゃんが亡くなってからわかったのですが、実家の食卓に自家栽培のおいしい野菜が並んでいたのは、おばあちゃんがしっかり手入れをして愛情を込めて野菜を育てていたからだと知りました。
おばあちゃんはいつもニコニコしていて、笑顔の顔しか思い浮かびません。
一緒に遊んだり、ごはんを作ってもらったり、たくさんの愛情をもらいました。
大学生のときや社会人になってからは実家に帰ることがほとんどなく、あまりおばあちゃんと会話をすることなかったのですが、話すときはいつも笑顔でした。
しかしおばあちゃんも子宮頸がんになってしまいます。
お見舞いに行くと笑顔なんです。
おばあちゃんは身体が痛くて辛かったと思います。
でも笑顔で迎えてくれました。
すごく優しいんです。
そしてこんなことを言ってくれました。
「あら、いい男になったねぇ」
って、すごくうれしかったです。
ただ、これが最後の会話になりました。
次に会えたのはおばあちゃんが冷たくなってからでした。
おばあちゃんは、家に帰りたいってずっと言っていたようです。
でも容体が回復せず、生きて家に帰ることができず、病院のベットで亡くなりました。
「家に帰る」
健康なときは何気ないことで、当たり前なことです。
しかし、そんな当たり前すら叶えることができなくなることがあります。
3年目はお兄ちゃんでした。
その死は前触れもなく急にやってきました。
眠っている間に心臓が止まってしまったようです。31歳でした。
兄の死を知って、悲しさがこみ上げました。
親より先に死んだことに怒りを覚えました。
そして、子どもに先立たれた親のことが心配でした。
31歳という若くして亡くなるというのは、どういう気持ちなのでしょうか。
やりたいことがまだまだあったでしょう。
友だちと遊ぶ。
好きな人と一緒に過ごす。
家庭を持つ・・・
やり残したことは数えきれないと思います。
家族全員が悲しみに暮れながらも、葬儀の準備や兄のアパートの片付けなど、やらなければいけないことが多く、あっとゆう間にお通夜を迎えたように思います。
そしてお通夜と葬儀も瞬く間に終わりました。
しかし、その中でも家族の心境の変化は大きいものがありました。
兄のお通夜と葬儀には、600人もの人が参列してくださいました。
たくさんの方が兄に別れを言いに来てくれました。
その中で兄の話をたくさんしました。
兄の新しい側面をたくさん知りました。
そして友人の多さに驚きました。
僕たち家族の悲しみが消えることはありませんでしたが、1つ確信したことがあります。
それは、「兄は絶対に幸せだっただろう」ということです。
兄の幸せを確信できたからこそ、家族が救われたお通夜と葬儀だったと思います。
その後も兄の友だちは事あるごとに家に訪れてくれます。
そして僕ら家族に元気をくれます。
本当にありがとうございます。
兄の名前は「昌幸」と書きます。
これは「日に日に幸せになりますように」と両親が名付けました。
そして兄はこの名前のごとく生きた人でした。
小さいころの兄は我慢する子でした。
兄弟げんかで僕が叩いても反撃せず、耐えていたそうです。
一度我慢できなくなって反撃したときも母に叩いていいか聞いてから叩いたほどです。
また写真にも写りたがらないくらいの引っ込み思案でした。
自分を主張するということがあまりありませんでした。
今考えると我慢ばかりさせてしまっていたかなと思い、ごめんって思います。
そして兄は社会人になったときとても悩んでいたようです。
自分の本当にやりたいことがわからない。
こんな人生でいいのか・・・
一時自殺まで考えてしまっていたみたいです。
そんな兄も変わりました。
やりたいことを見つけ、会社も辞めて、全力で活動していくなかでどんどん変わっていきました。
いつが一番幸せだったと聞くと、「今が一番幸せ」と言っていたそうです。
多くの友人に囲まれ幸せに過ごしていたと思います。
名前のごとく日に日に幸せになって、多くの幸せをかみしめていたでしょう。
こんな兄を見て思ったのは、「今を生きている」ということでした。
過去に縛られて後悔することなく
未来を見過ぎて不安に支配されることもなく
ただ今を全力で生きていたと思います。
それだからこそ幸せだったのだと思います。
そんな兄はかっこいいと思いました。
僕も今はそんな生き方ができていると思います。
そしてこれからも今を全力で生きていこうと思います。
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